理化学研究所、傷害を受けた網膜細胞を薬で効率良く再生する方法を開発
傷害を受けた網膜細胞を薬で再生する手法を発見
- 移植治療と異なる薬物による新たな再生治療への第一歩 -
◇ポイント◇
・マウス、サルの網膜の再生を促進することに成功
・網膜だけでなく、難治性神経変性疾患の再生治療にも期待できる
・神経回路に組み込み、機能確認するフェーズアップで実用化探る
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)と京都大学(尾池和夫総長)は、大人の網膜において、傷害後にミュラーグリア(網膜のグリア細胞※1)から光を感知する神経細胞である視細胞を効率良く再生する方法を開発しました。理研発生・再生科学総合研究センター(竹市雅俊センター長)網膜再生医療研究チームの高橋政代チームリーダー、小坂田文隆研究員らの研究グループによる成果です。
これまでに大人の網膜は、グリア細胞から再生することは明らかになっていました。しかし、新生される細胞数は少なく、網膜の再生はごくわずかであり、実際に網膜の機能を回復できる数ではありませんでした。
小坂田研究員らは、細胞増殖や分裂など多彩な機能を持つことで知られているWnt(ウィント)※2という分泌因子に着目し、網膜再生のメカニズムを解明し、傷害後の網膜の再生を劇的に促進することに成功しました。傷害を受けた網膜にタンパク質であるWnt3aや低分子化合物であるGSK3β阻害薬を投与し、Wntシグナルを活性化することで、網膜前駆細胞数が増加し、光を感じる視細胞の新生が促進することを明らかにしました。本研究の成果は、従来再生医療において考えられていた移植治療とは異なり、薬物による再生治療の可能性を示したものであり、将来の難治性神経変性疾患の予防・治療薬の開発に資する重要な知見と考えられます。
なお、本研究は、高橋チームリーダーが京大附属病院探索医療センター助教授、小坂田研究員が京大大学院薬学研究科薬品作用解析学分野(赤池昭紀教授)の大学院生の時から行ってきたものです。
本研究成果は、文部科学省のリーディングプロジェクト「再生医療の実現化プロジェクト」の一環として進められたもので、米国の科学雑誌『The Journal of Neuroscience』(4月11日号)に掲載されます。
1.背景
網膜(図1)は中枢神経系の一部であり、一度傷害を受けると、修復が極めて難しい組織です。視細胞の生存・維持に必要な遺伝子の異常が原因で発症し、日本で3万人の患者がいるといわれる網膜色素変性※3や欧米において高齢者の失明原因の一位を占める加齢黄斑変性※4では、光を感知する視細胞が変性・脱落し、やがて失明することが知られていますが、これら眼疾患に対する有効な治療法は確立されていません。研究グループは、これまでに哺乳類の網膜に存在するグリア細胞が、傷害により脱落した神経細胞に分化・新生することを2004年に世界で初めて明らかにしてきました(Proc Natl Acad Sci USA. 101:13654-9, 2004)。しかし、その新生細胞数は非常に少なく、網膜の機能を回復させるほどではありませんでした。今回、小坂田研究員らは、傷害後の網膜の再生メカニズムを明らかにし、新生細胞数を増加させ、網膜再生を促進させることに成功しました。
再生医療では、傷害された神経細胞と同じ細胞を移植し補充する細胞移植が注目されています。網膜においても、細胞移植での再生治療を目指した試みが盛んに行われています。それに対して、今回の研究は、細胞移植に加え、薬物による網膜再生の可能性を新たに示しました。
2.研究手法と成果
(1)傷害網膜にWnt3aを投与することで新生細胞数が増加
成体ラットの網膜を単離して、多孔質膜上で器官培養を行いました。その培養網膜では、生体内と同様に、ミュラーグリア細胞(網膜特有のグリア細胞)が分裂することを観察しました。分裂したミュラーグリア細胞は網膜前駆細胞へ脱分化※5し、網膜神経細胞へ分化することが免疫組織化学により明らかとなりました。その単離網膜にタンパク質Wnt3aを投与すると、内顆粒層に存在する分裂細胞がさらに増加しました(図2)。その後、視細胞の発生・分化に必要なレチノイン酸を投与すると、それら分裂細胞は視細胞が存在する外顆粒層へと移動し、光に反応するタンパク質ロドプシンを発現する視細胞へ分化しました。以上の結果から、傷害を受けた網膜にWnt3aを投与すると、光を感知する視細胞の新生が増加することが明らかになりました(図3)。
(2)網膜の再生過程にWntシグナルが関与
Wntシグナルの活性化の度合いを組織学的に調べることができるマウスや、傷害による遺伝子発現の変化を解析したところ、無傷の網膜ではWntシグナルの活性化が認められないのに対し、傷害を受けた網膜ではWntシグナルの活性化が認められました。さらに、このWntシグナルを抑制することができるタンパク質Dkk-1を投与したところ、傷害後の網膜再生は抑制されました。
(3)低分子化合物で網膜再生が可能
Wntシグナルが活性化すると、その下流の因子であるGSK3βが阻害されるメカニズムが明らかとなっています。そこで、低分子化合物のGSK3β阻害薬を傷害後の網膜に投与したところ、分裂細胞が多数観察され、Wnt3aと同様に網膜の再生が促進することが明らかとなりました。Wnt3aのようなタンパク質は、薬物治療に用いるには、投与ルートが限られるなどの理由から薬にするのは非常に難しいとされていますが、低分子化合物であればそれらの問題を解決することができ、薬になる可能性が考えられます。
(4)病態モデルの網膜、サルの網膜でも再生
遺伝的に網膜が変性するモデルマウス(rdマウス)の網膜も、正常マウスと同様にミュラーグリア細胞の分裂を観察し、Wnt3aを投与することにより分裂細胞が増加しました。その後、レチノイン酸を投与すると、分裂細胞は、視細胞が存在する外顆粒層へと移動し、ロドプシンを発現する新生視細胞を観察しました。以上の結果から、変性過程の網膜でもWntシグナルの活性化により、再生を促進できることが明らかになりました。さらに、ヒトと同じ霊長類であるサルの網膜においても、傷害後に分裂細胞を観察し、その細胞がロドプシンを発現する視細胞へ分化することも確認しました。
本研究の成果は、将来の難治性神経変性疾患の予防・治療薬の開発、および幹細胞を用いた神経再生治療に資する重要な知見と考えられます。
3.今後の期待
今回の研究により、Wntシグナルを活性化することで、網膜の再生が促進することが明らかになりました。神経再生を目指した薬物治療では、Wntシグナルが創薬ターゲットになりうると考えられます。従来再生医療において考えられていた細胞移植による再生とは異なり、薬物による再生治療の可能性が開けました。薬物治療では、細胞移植と比較して、外科的な侵襲を軽減させることができます。さらに、薬物治療では、自分の細胞を用いるので、ES細胞を用いた再生とは異なり、倫理的な問題はありません。今後、神経再生を目指した新薬の開発が期待されます。
今回の研究はマウスを対象としましたが、サルの網膜においても同様に網膜の再生が観察できました。しかし今後、治療の現場でこの知見を活かすには、ヒトの生体内で網膜再生が起こっているか否かを明らかにしていく必用があります。また、新生した視細胞が網膜内で神経回路に組み込まれて機能するかどうかについても調べる必要があります。これらの課題を解決していくことで、今回の研究を加速させることができます。
<補足説明>
※1 グリア細胞
神経系をつくる細胞のうちニューロンでないものの総称。脳神経系にはアストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリアなどが含まれる。それぞれの細胞種に特徴的な突起を伸ばしてニューロンがつくる神経回路を取り囲み、神経組織の支柱、ニューロンへの栄養供給と環境整備、信号伝達の修飾などの機能を担う。
※2 Wnt(ウィント)
分泌タンパク質。発生期において体軸や脳の形成に重要な役割を果たすことが知られている。Wntは細胞表面の受容体に結合し、細胞内へシグナルが伝達され、GSK3βを阻害する。
※3 網膜色素変性
網膜色素変性は、視細胞の維持に必要な遺伝子の異常で視細胞がアポトーシスによって徐々に消失して、視野が狭窄し、多くの人がやがて失明に至る病気。日本には約3万人の患者がいる。
※4 加齢黄斑変性
加齢黄斑変性は、網膜下の網膜色素上皮細胞のアポトーシスや脈絡膜からの血管新生によって、二次的に視細胞が障害を引き起こす。先進国において高齢者の失明原因の一位を占める重篤な疾患の一つ。
※5 脱分化
ある性質を持った成熟細胞が未熟な細胞の状態に戻ること。
図1 網膜の構造
角膜や水晶体を透過した光は、神経網膜に到達し、視細胞で感知される。その後、視覚情報は双極細胞、神経節細胞へと伝達され、視神経を通じて視覚野へと伝えられる。
(小坂田文隆、高橋政代「体性幹細胞を用いた網膜再生」実験医学24, 256-262 (2006)より改変)
図2 傷害後にミュラーグリア細胞が分裂する
緑:分裂細胞、赤:ミュラーグリア細胞。成体ラットの単離培養網膜を傷害すると、生体内と同様、ミュラーグリア細胞が分裂し、Wat3aを投与することでその分裂細胞が増加した。
図3 傷害後に視細胞が新生する
緑:新生細胞、赤:視細胞、矢印が新生視細胞。成体ラットの単離培養網膜を傷害し、Wat3aを投与すると、新生細胞が多数生まれ、視細胞へと分化することが観察できた。
(* 図1~3は添付資料を参照してください。)