理化学研究所、社会環境の変化に応じて頭頂葉の神経細胞が働きを変えることを発見
社会環境の変化に応じて頭頂葉の神経細胞が働きを変えることを発見
- 社会的知性解明へ道を切り拓くまったく新しい手法を確立 -
◇ポイント◇
・行動制限のない複数の実験動物の行動と神経活動の同時記録に世界で初めて成功
・常時変化する社会環境に対し、頭頂葉の神経細胞が適応的に反応することを見出す
・社会的行動に異常をきたす疾患の仕組みの解明への大きな一歩
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、視覚や聴覚などさまざまな情報が統合され、まわりの空間や環境を認知していると考えられる頭頂葉※1の神経細胞が、他者との社会的相互関係に応じて仕組み(機能)を変えることを発見しました。理研脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)象徴概念発達研究チームの藤井直敬副チームリーダー、入來篤史チームリーダーらによる研究成果です。
私たち人間は、極めて社会的な動物だと考えられています。私たちは、常に変化している社会環境や状況に応じて最適な行動を選択して切り替えています。そのような社会環境の変化に応じて、柔軟に行動を変化させる“社会的脳機能(Social Brain Function)”と呼ばれる脳の仕組みは、いまだ解明されていません。研究チームでは、この仕組みを明らかにするため、2頭のニホンザルを用い、“互いに競合することなく餌を取得できる場合”、“餌をとるためには互いが競合する場合”の2つの状況を用い、頭頂葉の頭頂間溝周辺における神経細胞の活動を記録しました。この実験に際して研究チームは、サルの行動を制限せずに、神経細胞の活動を同時に記録できる「多次元生体情報記録システム」という記録手法を世界で初めて開発しました。
2頭のサルは、互いに競合しない場合には、例え近くに別のサルがいても1頭だけの時と同じように行動し、同時に記録した頭頂葉の神経細胞も、自分の行動を中心に反応していました。しかし、両者が社会的に競合し、餌をめぐる争いが物理的に生じると、それまでほとんど自分の行動だけに反応していた頭頂葉の神経細胞が、その働きを変え、自分だけでなく他人の行動にも反応するようになりました。これは、常に変化する社会環境の中で、脳の空間認知機構が、社会環境の変化に応じて神経細胞一つ一つのレベルで大きく切り替わることを示した世界で初めての成果です。
自閉症や統合失調症など、まわりの環境に応じて適切な行動を組みに異常をきたし、通常の社会行動をとることが難しい疾患は少なくありません。本研究成果は、社会環境の変化に伴う脳機能の仕組みの解明だけでなく、それらの疾患の克服にも新たな知見を与える可能性を秘めています。本研究成果は、米国の科学雑誌『PLoS ONE』※2(4月25日付け・オンライン)』に掲載されます。
1.背 景
私たちの脳は、生涯のうち一度として同じ環境に置かれることはなく、環境は常に変化し続けています。たとえば、自宅から職場までの複雑な道のりを移動し、到達する際、たくさんの人々に出会いますが、私たちの行動が、他者との間で社会的な問題を引き起こすことや、周囲から異常とみなされることはほとんどありません。これは、行動を選択する過程において、他者との関係性と解決法がすでに織り込まれているからだと考えられます。それでは他者を含めた環境への適応的行動はどのような基準や仕組みで選択され実行されているのでしょうか?
実際に行動を選択し、実行しているのは脳です。脳には、社会環境に応じて臨機応変に最適な行動を行う能力があります。脳が持つこの能力、つまり“社会的脳機能(Social Brain Function)”は、自身を取り巻く他者を含んだ社会環境の中で、何を行うとどのような社会的リスクが生じ、どのくらい自己の利益が獲得できるかを比較しながら、最も少ないリスクで最大の利益を得る選択を行っていると考えられています(図1)。
この誰もが持つと考えられる社会的脳機能は、異常をきたすと自閉症や統合失調症などさまざまな疾患を発症するにも関わらず、神経細胞レベルでその仕組みを解明する試みはあまりうまくいっていませんでした。この原因は、“社会という目に見えず触れることもできない構造を、科学的に計測し記述することが難しかった”こと、“社会的脳機能解明に必須と考えられる、複数個体からの脳活動記録が困難であった”ことなどが挙げられます。さらに社会的脳機能解明のためには、“実験動物(ニホンザル)の身体的拘束を可能な限り排除して、自然な感情表出や、自由意志にも基づく自然な行動選択ができる実験環境を整える”ことが必要でした。
これらの課題を満たすためには、克服すべき技術的問題が山積しており、それらを解決しなければ先へ進むことができなかったのです。そこで、研究チームは、ニホンザルを用いた新しい手法を開発し、常に変化する環境の中で、脳がどのように変化するかという命題の解明に挑みました。
2.研究手法と成果
(1)多次元生体情報記録システム
研究チームは、社会的脳機能の解明のために「多次元生体情報記録システム」という、まったく新しい手法を開発しました。この手法は、複数動物が社会行動をしている際の行動を詳細に記録するとともに、複数の実験動物の複数の脳領域から神経細胞活動を記録できるようにしたものです。新しいシステムは、おおまかに2つの技術を統合しました。1つは慢性多電極記録手法、もう1つはモーションキャプチャ技術です(図2)。慢性多電極記録手法は、脳の広い領域のネットワーク機能を明らかにするために、多数の電極を脳内部に配置し、多くの神経細胞から同時に神経細胞活動を記録する技術です。この技術を用いることにより、実験動物の頭部を固定することなく、自由運動状態でも安定した神経細胞活動を記録できるようになりました。また、モーションキャプチャ技術の導入により、実験動物の行動を制限することなく、行動を詳細に記録できるようになりました。
(2)実験課題
今回の実験では2頭のニホンザルを用い、モーションキャプチャによるサルの上半身の運動に伴う詳細な情報と、頭頂葉の頭頂間溝における神経細胞の活動を同時に記録しました。サルには、“餌取り課題”と呼ばれる実験課題を与えました。この課題中、2頭のサルは、テーブルの周りで3種類の相対位置を取ります(図3)。サルは下半身を覆われた専用の椅子に座り、金属製の首輪が椅子の背もたれに固定されます。そのため下半身の動きは制限されますが、人が椅子に座って仕事をするときと同じように、腰から上の運動はほとんど自由に行うことができます。
まず、位置Aでは、お互いが向かい合わせで座ります。この状態では、テーブル上のそれぞれのサルの手の到達範囲が重なることはありません。一方、位置BとCでは、両者がテーブルの角を挟んで座るため、両者の手の届く範囲が重なります。この重複する領域では競合が起きます。しかし同じ位置でも、1頭のサルしか到達できない空間も残っており、そこでは競合は起きません。これらの3つの相対位置にサルを置き、その際テーブル上に餌を一つずつ置いていきます。この餌をどちらのサルが、どちらの手を使ってとるかはサル自身が決めることで、実験者から指示を与えることはありません。
(3)課題中の行動
始めに(2)で示した課題実行中のモーションキャプチャデータと同時に撮ったビデオ画像をもとに、サルがどのような行動をしたのか解析しました。まず、両者が向かい合った位置Aでは、競合する空間がないため、どちらのサルも自分の手の届く空間に置かれた餌を100%の確率で獲得しました(図3A)。この位置では、サルは、お互いの存在を無視し、あまり相手に注意を払っている様子はありませんでした。
1頭のサルM1の右に、もう1頭のサルM2が隣り合った位置Bでは、非競合空間(テーブルの左上か右下)に置かれた餌は、位置Aと同様、それぞれのサルが100%の確率で餌を取りましたが、競合空間(テーブルの左下)ではM1だけが餌に手を伸ばし、M2は餌に手を伸ばすことをほとんどせず、M1が餌を取る確率が94%でした。一方、M2は6%しか餌を獲得できませんでした(図3B)。この間、M2は、M1をチラチラと盗み見ていましたが、M1は依然、M2の存在を無視していました。
次にM2の右にM1が隣り合った位置Cでは、非競合空間(テーブルの左下、右上)は他の相対位置と同じですが、競合空間(テーブルの右下)におけるM2の餌の獲得割合は、13%に増加しました(図3C)。互いのサルの位置関係がCとなったときに初めてM1は、M2の存在に気がついたように振る舞い、餌を取れなかったときには、M2に対して威嚇行動を行うことも観察されました。このときM2は、位置Bのときと同じようにM1の行動をよく観察していました。
このようなサルの行動は、実験者が教えたわけではなく、サルの間に明らかに存在する社会関係にもとづいて自然に生じた社会的適応行動だといえます。
(4)頭頂葉の神経細胞活動
次に、(2)で示した課題を行っている際に、左頭頂葉の頭頂間溝の前壁から記録した174個の神経細胞の活動を解析しました。解析にはモーションキャプチャで得られたデータをもとに、2頭のサルそれぞれの両手、つまり合計4本の腕の運動情報を抽出し、その運動情報と神経細胞活動との相関を調べました。位置Aでは、左頭頂葉における神経細胞の活動は、どちらのサルとも自分自身の右手を動かした時に強く増加しました。しかしながら自分の左手、もしくは相手のサルの両手の運動に対しては、あまり反応しませんでした。これらの反応は、過去に私たちの研究チームや他の研究グループによって報告されたものと一致しています。
一方、位置Bでは、M1の神経細胞は、依然として自分の右手の運動に対して有意に強い反応を示していましたが、M2は、やや自分の右手への反応を弱め、他の手の動きに対しても反応を始めました。そして、位置Cになると、M1、M2のどちらのサルの頭頂葉細胞も、自分の右手に対する反応性を有意に低下させ、自分の手のみならず、他者の手の動きにも同じように反応するようになりました。(図4)。
つまり両者の間に生じた競合をきっかけに、空間の持つ社会的文脈が変化し、頭頂葉の反応性が変化したと考えられます。
(5)道具使用による競合空間の操作
(2)で示した課題において、位置A、B、Cは、それぞれの相対位置が異なるため、頭頂葉の受ける視覚刺激条件も異なり、2頭の関係性における社会的環境以外にも、他の要素によって頭頂葉の神経細胞の反応が変化する可能性がありました。そこで、2頭のサルが置かれた条件を一定にし、互いのサルの競合状態のみを操作し、その際の脳活動を探るため、位置A1とA2という新しい課題条件で行う実験を追加しました(図5)。
サルの相対位置は、(2)で示した実験課題の位置Aと同じです。しかし、位置A1では2頭のサルが道具を使うため、テーブルの中央部に競合空間が生じます。一方、位置A2では、M2のみが道具を使うため、両者の到達空間が重なることはなく、社会的競合は生じません。このような課題中の頭頂葉の神経細胞を解析すると、位置A1では、(2)で示された課題実験の位置Cで見られたのと同様に、自分の右手への反応を低下させ、他者への反応が増加していました。ところが位置A1から位置A2に変わると、再び位置Aの時と同じように自分の右手により強く反応するようになりました(図6)。
つまり今回の実験で見られた頭頂葉の神経細胞の自身および他者の行動に対しての反応の変化は、2頭のサルの間に社会的な競合がうまれ、他者の存在を明確に意識することにより生じた新しい社会的環境への適応機能によるものだと考えられます。
(6)まとめ
私たちの普段の生活では、誰かが部屋に入ってくるだけで、部屋の空気が一変することがよくあります。これは、他者が自分の周りの環境の中に入ってくることで、自身のまわりの環境が変化し、それに対して私たちの脳が適応しようとしている反応だと考えられます。今回の実験では、頭頂葉の神経細胞が、競合をきっかけとした社会環境の変化に伴い、適応的な空間認知を行うことにより、サルの社会行動が切り替わっていることが示唆されました。この頭頂葉でみられた社会構造への適応的認知機能は、時々刻々と変化する自身のまわりの社会環境の中で、最適な行動選択に必須の機能だと考えられます。
3.今後の期待
社会環境の変化に応じて脳の空間認知機構が神経細胞一つ一つのレベルから大きく切り替わるという新たな知見は、ヒトの持つ高度な適応能力と社会的知性の根幹をなすものであると考えられます。しかしながら、このような複雑な社会的脳機能が一部の脳領域だけで実現されているとは考えにくく、今回、新しく開発した多次元生体情報記録システムによって、今後、脳内のより広い領域からの包括的な記録を行うことで、“社会的脳機能”の理解が進むと考えられます。また、自閉症や統合失調症など、まわりの環境に応じて正しい行動を選択する仕組みに異常をきたし、通常の社会行動をとることが難しい疾患に対して、それらの疾患のしくみの理解と克服にも新たな知見を与える可能性を秘めています。
*補足説明は、添付資料をご参照ください。