理化学研究所、信和化工とクラゲ種に共通する新しい糖タンパク質「ムチン」を発見
エチゼンクラゲなどに共通の新しい糖タンパク質「ムチン」を発見
- 理研オリジナルの高付加価値な工業素材として実用化へ -
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)と信和化工株式会社(和田啓男代表取締役社長)は共同で、エチゼンクラゲ、ミズクラゲなど日本沿岸に普通に見られる多くのクラゲ種に共通して「ムチン(※1)(糖タンパク質の一種)」が大量に含まれることを発見し、その構造を決定することに成功しました。これは、理研中央研究所(茅幸二所長)の環境ソフトマテリアル研究ユニットの丑田公規研究ユニットリーダーらの成果です。なお、この発見には、京都府京丹後市の三津漁業生産組合(澤博行組合長)の組合員の献身的な協力がありました。
発見した化合物は、構造が比較的シンプルで、人間の胃液などの主成分として含まれる「MUC5AC(※2)」というムチンと酷似した構造を持っています。ムチンは、人間だけでなくさまざまな動物の粘液の中に含まれ、細菌やウイルスから身を守る抗菌作用や保湿効果を発揮してきており、医薬品や健康維持のため注目されています。人間の胃液中では、含んでいるムチンが胃がんの発症原因となっているピロリ菌を捕まえて活動を抑制する働きをしていることも明らかになってきています。これまで工業的にムチンを大量に生産する方法は、化粧品や食品の添加物として用いられる家畜由来のガストリックムチンなど限られていました。新規ムチンは、これらと異なり、大量生産が可能である上に、化学構造が明確になっているので、糖鎖の変換などにより、高度な医薬品材料として発展する可能性を持っています。
新規ムチンの発見は、こうした高付加価値製品開発を加速させるとともに、新たなムチンの資源を人間社会に提供するものとなります。クラゲから採取するムチンは、簡単で大量に生産できることから、工業化も容易で、価格の安いムチン原材料を提供できると考えられます。このムチン生産プロセスは、クラゲの処理作業と平行して進めることができるため、廃棄物として扱われてきたクラゲの回収・処理問題を一石二鳥で解決することが可能となります。
研究ユニットでは、この化合物を古事記にちなんで「クニウムチン(Qniumucin)」と命名(※3)し、理研オリジナルな化合物として実用化することを目指し、すでに大量生産に向けた研究をスタートさせました。今後は、利用の範囲を広げ、大きな付加価値を付けることにより環境を保全するコストを捻出する公共性の高い産業を創出できる可能性を追求する予定です。
本研究は、独立行政法人科学技術振興機構の平成18年度独創的シーズ展開事業、大学発ベンチャー創出推進のテーマにも「クラゲ廃棄物から抽出した新規ムチン生産の企業化」として採択されています。この成果はアメリカ化学会、アメリカ薬学会の共同出版による『Journal of Natural Products 』に6月1日オンライン掲載されます。また、6月16、17日に京都国際会議場で開催される第6回産学官連携推進会議(内閣府主催)の若手研究者による科学技術説明会でも「クラゲ類から抽出した新規有用糖タンパク質(ムチン)の製造」として口頭発表されます。
1. 背 景
クラゲは毎年1地域あたり数千トンから数万トン以上の規模で発生し、人間社会や経済、人々のくらしに大きな影響を与えています。最近、日本海沿岸に大発生した巨大クラゲ(写真1)は、定置網漁、底曳き漁が操業不能に追い込まれ、漁業関係者は深刻な打撃を被っています(写真2)。また、海岸に建設され、大量の海水を冷却水などに利用している原子力発電所や火力発電所は、急に大発生するクラゲの影響で予期せぬ運転停止に追い込まれることがあります(※4)。
漁業関係や電力会社では、いつ大発生するかわからないクラゲのリスク対策として、機械や網で除去または回収をしています。しかしながら、多くのクラゲが食用にできないなど、ほとんど利用価値がなかったために、現時点では単なる廃棄物に過ぎず、処理するには大きなコストを要するといった問題を抱えたままとなっていました。つまり、単にクラゲを回収・処理したとしても漁業環境や港湾環境を保全するコストを捻出することができないのが現状です。
現在のところコラーゲンやゼラチン質などのタンパク成分を利用する努力が一部の企業や研究機関で進められていますが、これまでクラゲに含まれる糖鎖化合物はほとんど注目されていませんでした。
2. 研究手法と成果
(1) 新規ムチンの発見と構造決定
研究ユニットでは、今まであまり注目されてこなかった糖鎖化合物を目的に、いくつかの種類のクラゲから新規有用物質の抽出を試みました。その結果、比較的簡単な手法で、クラゲのほぼ全身から、今までに知られていない全く新しい化合物を抽出し、その構造を決定しました。この新物質は、クラゲの体重の0.02%~0.1%(部位によって異なる)含まれているので、クラゲの生理にとって何らかの重要な働きをもっているものと考えられます。クラゲの95%は水でできていると言われていますから、単純計算で乾燥重量(ほぼ全有機物量にあたる)の1%前後という高い構成成分比となります。
また、近年日本海沿岸で何度も大量発生しているエチゼンクラゲについても、過去2年間にわたって京都府京丹後市の三津漁業生産組合の協力を得て、同じ物質を抽出することに成功しました。その他、日本近海で取れるほとんどのクラゲ(鉢虫類)からも同じ物質が抽出されました。
クラゲを陸上に引き上げた場合、何らかの形で廃棄することが必要になります。クラゲの含む水分は、ほとんど海水と同じ成分なので、クラゲを破砕し、遠心分離や濾過を用い、95%の水分と残りの固形物に分離して減量廃棄することが有効と考えられます(図1)。今回発見した新規化合物は、クラゲの特定部位に存在するわけでなく、全身に存在しているため、この廃棄物処理に平行して容易に取り出すことができます。
決定した新規化合物の構造は、8つのアミノ酸からなる単純な繰り返し構造(タンデムリピート)に短い糖鎖がO-グリコシド結合(※5)しているユニット(図2)が、さらに40~55回程度繰り返す高分子化合物で、動植物で広く見いだされる“ムチン”と呼ばれる化合物に属しています。実験では、日本近海で採れる様々なクラゲにも、すべて同じアミノ酸配列を持つムチンが含まれていることを確認しました。これらのアミノ酸配列がDNAにコードされて、種族の中で継承されていることを裏付ける事実と考えられます。人間の胃や気道に存在するMUC5ACというムチンも8つのタンデムリピートを持ち、しかも8つのアミノ酸の中の4つのアミノ酸が新規ムチンと一致しています(図2)。このことは、人間のような高等な生物と、クラゲのような下等な生物とが進化の過程で結びついていることを示唆する興味深い事実です。
(2) 新規ムチンの実用化に向けて
ムチンは、人間だけでなく様々な動物における粘液を形成している重要な化合物と考えられています。したがって、生物における粘液の作用を人工的に再現し、医療に用いる可能性を有しています。粘液の作用とは、すなわち、細胞や皮膚表面の保湿作用、洗浄作用、抗菌作用などです。ムチンはその糖鎖部分を相互作用させて、レクチンなどのタンパク質を認識する能力があることが知られています。
たとえば、人間の胃液中のムチンは、その糖鎖部分がピロリ菌の持つ糖鎖やタンパク質を認識してその活動を抑制する作用があると言われています。また、鼻水や唾液に含まれるムチンは、ウイルスや細菌の感染力を弱めそれを洗い流す力を持っています。こういった抗菌作用は、糖鎖がしなやかに細菌やウイルスの持つ糖鎖やタンパク質を認識し、それらを吸着することにより実現している生理作用です。人工的にこれらの粘液を作ることにより、粘液の作用の不全によって起こる様々な疾病の治療に利用できると考えられます。この他に、ムチン膜と呼ばれる両親媒性膜の原料として用いるなど、今まで実現しにくかった材料生産を可能にすることが期待されます。
現在まで、構造が明確なムチン類を合成化学やバイオテクノロジーを用いて大量に生産することは実現していません。今回の成果は、その代替策として、海洋生物からの抽出により工業生産を目指すものです。理研では、すでに2005年8月に新規化合物に関する特許を出願しています。この新規ムチンには、古事記にちなんで「クニウムチン(Qniumucin)」と命名しました。今後、理研オリジナルな化合物として、利用価値や付加価値を高める研究を展開していきます。付加価値を高めることは、廃棄物処理を促進し、環境の整備に大きく貢献します。たとえば図1に示したように、水分を分離して、減量化するだけで、廃棄物処理効果が得られますが、従来このコストを捻出することは容易ではありませんでした。しかし、このプロセスと平行してクニウムチンの抽出を行えば、廃棄物処理、ひいては環境保全事業全体のコストをまかなう可能性が出てきます。また、この事業に漁業生産者が採取に参加することにより、沿岸地域の漁業を振興することも可能です。これを実現するには、クニウムチンの価値を高め価格を高くできるかどうかが、重要なポイントになります。
3. 今後の期待
現在、ムチン類は、サトイモやレンコン、シロキクラゲなどに含まれている植物性のものがよく知られていますが、食品に含まれる一つの栄養素として認識されているに過ぎず、詳細な構造決定もされていません。一方、動物性のムチンはあまり例がなく、家畜の胃液から採取したガストリックムチンや、牛の顎下腺から採取したムチンなどが従来から市場に出て、それぞれ食品添加物や胃腸薬などに使用されている程度です。しかも、これらは構造決定されていない混合物です。最近では家畜由来の物質はBSE問題の影響で忌避され、市場から閉め出される傾向が強く、安全性の高い代替物質の登場が待ち望まれていました。今回発見した“クニウムチン”が安定供給されれば、この役割を果たす可能性があります。特にクニウムチンは、他のムチンと違って、化学構造が決定されたという大きな付加価値を持っていることが特徴です。その他に、本化合物は、化粧品、医薬品、食品添加物、医用材料の原料、またそれらの目的に使う新規化合物合成の出発物質として今後利用が進むものと考えています。特に糖鎖部分の認識能を特異化し、強化した材料が開発されれば、夢のムチン医薬が開発できると考えられます。
「クニウムチン」:くらげは、日本最古の文献の古事記の冒頭に「くらげなす」という言葉で登場することからもわかるように、日本人にとって古くからなじみのある海洋生物と思われます。現在大型クラゲの被害を受けている、九州、山陰、北陸にかけての地域は、古代には大陸との交流が盛んで、豊かな経済活動を営んでいた地域に当たります。大型クラゲはちょうどその交易に使われた海流に乗って日本にやってくると考えられています。クラゲ被害という災いを転じて、古代と同じように、再び豊かな産業がこの地方に生まれ、新たな「国生み」につながるように願いを込めて「クニウムチン」という名前を付けました。
4. 会社概要
(1) 信和化工株式会社
資本金 2,000万円
所在地 〒612-8307 京都府京都市伏見区景勝町50番地の2
電話番号 075-621-2360
事業内容 ガスクロマトグラフィー、液体クロマトグラフィーの勃興期から充填剤やカラム、関連デバイスの開発を先駆けて行っており、汎用カラムから光学異性体などの専用分離カラムまで国内、海外を含めて幅広く製造販売している会社です。また、分離工学分野において、タンパク質の精製や、担体への固定化などの技術を有し、バイオ、環境方面への技術展開を図っています。大学、研究機関との共同研究や連携、委託開発も経験をしており、研究、開発、製品化の実績もあります。
(2) 独立行政法人理化学研究所
科学技術(人文科学のみに係るものを除く。)に関する試験及び研究等の業務を総合的に行うことにより、科学技術の水準の向上を図ることを目的とし、日本で唯一の自然科学の総合研究所として、物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研究を進めています。また、研究成果を社会に普及させるため、大学や企業との連携による共同研究、受託研究等を実施しているほか、知的財産権等の産業界への技術移転を積極的に進めています。